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人を好きになること [日記]

誰かを好きになること、愛や友情など…世間では綺麗なもの、良いものだとされているが本当にそうなのか?きっと違う、実際はもっと汚くてドロドロした感情にまみれているものに違いない。そう思う理由は二つある。

まず一つ目。私は自分自身が友達だと思っている人間を好きかと聞かれたら恐らくすぐに好きだと答えるだろう。しかしそれは本当の「好き」(=その人自身が好き)ではない。ここで言う私の「好き」は、「いつも私と一緒に行動している、すなわち自分のことを認識し、"一緒にいる"という行為をすることによって、私(自分)が一人ではないというメッセージを周囲に与えている(=私が価値のある人間だということの保証人になっている)から好き」という意味である。自分を認めてくれているから、そういう存在を失いたくないがために「好き」(=その人自身が好き)という感情を作り出しているのではないだろうか。勿論、「一緒にいて楽しいから一緒にいる」という人もいるだろう。しかしそれも私からすれば「本当の好き」ではない。すなわちそれは、「一緒にいることで楽しさという自分にとって有益なものを与えてくれている存在を失いたくないがために作り出された"好き"」なのである。

二つ目の理由。よくネット上で「コミュ障はちょっと話しかけられただけで好きになる」といった内容の記述を見かける(そのような記事ばかり読んでいる私は)。私はそれをとても的確に事実を表していると考える。まず「コミュ障」なる人間は普段、他人と滅多にコミュニケーションをとらない。それがどういうことであるかは、「コミュ障」になった理由のある過去について考える必要がある。「コミュ障」、すなわち「コミュニケーション障害」は、何らかの原因で人間とコミュニケーションをとることが困難になる障害だと考える。主な原因としてあげられるのはやはり、人間とのコミュニケーションの中で傷ついた経験があるということが一番多くあげられるだろう。その結果、人間とのコミュニケーションに対する恐怖心が芽生える。だから、自ずと人と話すことを避けるようになる。「人と話さない」という方法で自分を防衛するのである。私の経験からしてこれは紛れもない事実なのだが、長期間人と話さないと言語能力は確実に低下する。それが「コミュ障」につながるのである。

次に、「"コミュ障"が人から話しかけられること」について考えたい。前述の通りコミュ障は普段他人と話さない。しかし多くの場合、過去に他人と話すことで幸せを得られたという事実を持っているはずだ。(そうでなければコミュ障であることに負い目を感じることもない)だから、話さないことで幸せを得られない現在の自分に不満を持っている。だからとにかく「話すこと」を欲する。しかし、また傷付くのが怖いからなかなか自分から話しかけられることができない。このようなジレンマの中で突然、ある他人に話しかけられる。すると(ここからは憶測にすぎないが)無意識の中でその事に強い喜びを脳が受け取り(話すことに餓えている状態だったから)、たいした内容を話していなくても「話しかけられた」という事実に強く着目し(それは自分を認識して、そこに自分がいるという事実を認めている人がいるという事実である)頭の中で興奮しながら何度も反芻する。

これは所謂「恋愛」したときの状態に似ていないだろうか。それともこれもれっきとした「恋愛」の一形態なのだろうか。私は後者だと考える。則ち、この状態に陥った人間が「これは恋愛だ」と勘違いするのではなく、人間に免疫のない人間であるからこれも「恋愛」になるのである。しかし、「恋愛」(=人を好きになること)は綺麗なものではなく、ものすごく利己的な感情だと思う。
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