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人を好きになること [日記]

誰かを好きになること、愛や友情など…世間では綺麗なもの、良いものだとされているが本当にそうなのか?きっと違う、実際はもっと汚くてドロドロした感情にまみれているものに違いない。そう思う理由は二つある。

まず一つ目。私は自分自身が友達だと思っている人間を好きかと聞かれたら恐らくすぐに好きだと答えるだろう。しかしそれは本当の「好き」(=その人自身が好き)ではない。ここで言う私の「好き」は、「いつも私と一緒に行動している、すなわち自分のことを認識し、"一緒にいる"という行為をすることによって、私(自分)が一人ではないというメッセージを周囲に与えている(=私が価値のある人間だということの保証人になっている)から好き」という意味である。自分を認めてくれているから、そういう存在を失いたくないがために「好き」(=その人自身が好き)という感情を作り出しているのではないだろうか。勿論、「一緒にいて楽しいから一緒にいる」という人もいるだろう。しかしそれも私からすれば「本当の好き」ではない。すなわちそれは、「一緒にいることで楽しさという自分にとって有益なものを与えてくれている存在を失いたくないがために作り出された"好き"」なのである。

二つ目の理由。よくネット上で「コミュ障はちょっと話しかけられただけで好きになる」といった内容の記述を見かける(そのような記事ばかり読んでいる私は)。私はそれをとても的確に事実を表していると考える。まず「コミュ障」なる人間は普段、他人と滅多にコミュニケーションをとらない。それがどういうことであるかは、「コミュ障」になった理由のある過去について考える必要がある。「コミュ障」、すなわち「コミュニケーション障害」は、何らかの原因で人間とコミュニケーションをとることが困難になる障害だと考える。主な原因としてあげられるのはやはり、人間とのコミュニケーションの中で傷ついた経験があるということが一番多くあげられるだろう。その結果、人間とのコミュニケーションに対する恐怖心が芽生える。だから、自ずと人と話すことを避けるようになる。「人と話さない」という方法で自分を防衛するのである。私の経験からしてこれは紛れもない事実なのだが、長期間人と話さないと言語能力は確実に低下する。それが「コミュ障」につながるのである。

次に、「"コミュ障"が人から話しかけられること」について考えたい。前述の通りコミュ障は普段他人と話さない。しかし多くの場合、過去に他人と話すことで幸せを得られたという事実を持っているはずだ。(そうでなければコミュ障であることに負い目を感じることもない)だから、話さないことで幸せを得られない現在の自分に不満を持っている。だからとにかく「話すこと」を欲する。しかし、また傷付くのが怖いからなかなか自分から話しかけられることができない。このようなジレンマの中で突然、ある他人に話しかけられる。すると(ここからは憶測にすぎないが)無意識の中でその事に強い喜びを脳が受け取り(話すことに餓えている状態だったから)、たいした内容を話していなくても「話しかけられた」という事実に強く着目し(それは自分を認識して、そこに自分がいるという事実を認めている人がいるという事実である)頭の中で興奮しながら何度も反芻する。

これは所謂「恋愛」したときの状態に似ていないだろうか。それともこれもれっきとした「恋愛」の一形態なのだろうか。私は後者だと考える。則ち、この状態に陥った人間が「これは恋愛だ」と勘違いするのではなく、人間に免疫のない人間であるからこれも「恋愛」になるのである。しかし、「恋愛」(=人を好きになること)は綺麗なものではなく、ものすごく利己的な感情だと思う。

親に対して思ったこと [日記]

私は一人目の子供である。初めて親になった人間に完璧な子育てを求めるのは間違っていると思えるようになった。他人の親と比べるから自分の親が劣って見える。親を相対化するのは間違っている。「世の中には~な親もいるが私の親はそんなことしなかった、だから私の親は良い親だ」こういう考え方も私はしたくない。

もしかしたら性格が合わないというより気性の荒い人が苦手なのかもしれない。私が逆らえないと分かっていて携帯を見せるように言われた小学生のときの失望は忘れられない。人権を踏みにじるような発言が許せない。子供を所有物のように思っているのが気に入らない。



2016-12-10

高校を退学したい。何故なら授業がつまらないのと、音楽が嫌いになってしまったのと、人間と関わるのが嫌だからだ。そして、今自分で何もかもやるのは無理だから1年間この家でネットビジネスの腕を鍛え(=稼ぐ能力を身につけ)、19歳で大学入学したい。それならここにいてもいいと思うだろうか。無理だ。もう、本当に音楽が嫌いだということが分かったんだ。それなのにここにい続ける意義はあるのだろうか。辞める理由としては十分じゃないか、音楽が嫌いというのは。それがなかなか上手く通らないのは過去のいざこざがあったからだろう。そういう意味ではややこしくなったから面倒くさい。

フリーランスでネットビジネスをして生きていきたい。といってもまだ未着手なのでそんなに上手くいくか分からない。だけど、仮にそれが向いてなかったとしてもネットで稼ぎたいという思いは変わらない。日本の企業に勤めたいと思えないし、私は一生自分の好きなことをして生きていきたい。おそらく両親は正反対の人々だから理解されないだろう。理解してほしいとも思わない。なるべく最低限の説明ですむような…だからあんな考えが出てきたんだ。でも、私はまだ謝れない。まだ許せない。最低限のことしか喋りたくない。こんな私は幼稚だろうか。

2016-12-01

途轍もなく眠い。

自分は何をしたいのか。まず今を生きることが一番大事だと思う。ヴァイオリンも様になってきてピアノも感覚が直ってきた。なんだかもう…考えるのが面倒ってこういうことなのかな。あっさりと解決した伴奏問題。相手に依存することが無ければこんなにも簡単に終わってしまうものなんだなあ。ああもう確かにやりたいことは山ほどあって、計画も立てたい。だけど計画倒れするのはもうこりごり。音楽と学問って相性が悪いのかな。音楽をして興奮収まらぬままドイツ語の本を開いても頭に入ってこなかった。ラテン語もフランス語もイタリア語も広東語も北京語もドイツ語も古典、現代ギリシャ語も英語もロシア語も学びたい。6時半に家を出ればよいというのは幸せだなあ。

2016-11-30

最近疲れているといえば疲れている。人間と関わりを持たない自分が少し寂しいと感じるようになった。人間が嫌いでもそれは感じる。否、恐らく人間自体は嫌いじゃなくてある特定の人間が嫌いなのだろう。

弟と話していて楽しいと感じた。クラスカースト上位の子から話しかけられて嬉しいと感じたのは虚栄心からくるもの?なんか本格的に学校に行きたくなくなってきた。今日も夢で父親に学校に行かなくて良いと許可を貰っていた。何が嫌って人間関係しかない。それも急に人の目が気になりだした。きっと体育の授業のせいだろう。早く終わってくれないかな。そう言うことで本当に早く終わるならどんどん言えばいい、だけど言ったところで変わりゃしないんだから言うだけ無駄じゃない?って思ってたけど言いたくなるものだ。そういえば夢で数学の授業も受けてたなあ。一番前の席になったけど何故か机が後ろ向きで、随分黒板が見難いと感じていた。

大学は通信に行きたい。普通の大学も考えたけれど向いていないという結論に至った。専修大学のように受かれば無料で行ける成績優秀者のための支援もある大学もある。だけどまず私は集団行動が苦手だし、もう克服したいとも思わない。進学校の中の底辺でいるよりも中堅校の中のトップでいたい。その方が色々なチャンスも与えてもらえるだろうから。

なんだか本当に疲れたなあ。もう高校生活とかいいよ。いらない。わざわざ2時間近くかけて憂鬱な気分のまま学校へ行って目的も無くだらだらと過ごして楽しくも無い楽器を弾いてまた2時間かけて帰る。こんな毎日の繰り返しで気がおかしくなりそう。別にもう自分が一人でいることについてはどうでもいい。合わない子と一緒にいたり友達を待って行動したりするのは途轍もなく面倒くさいから、それなら多少寂しくとも一人でいるほうが効率的だし楽だ……と思っていた。最近になって人と関わることの楽しさを実感して、一日中一人でいる自分の寂しさを感じるようになった。確かにこの方が楽で、時間も自分だけのために使える。だからこれで良いんだ。変に人と関わると厄介なことしかない。いいんだ、これで、もう考えない様にしよう。

2016-11-25

ピアノを弾いている動画を見て、やっぱりかっこいいなあと思った。ピアノ自体は嫌いじゃないけど練習は面倒だし弾きたくない曲を弾くのは苦痛だし譜読みも得意じゃない。でも誰かがかっこいい曲を弾いているのを聞くと自分も弾きたいと思う。認めたくないが、そういう時、自分のピアノを聴いて上手になったと驚いている母親の姿が思い浮かぶ。恐らくピアノを聴いてくれる人がいなければ私は弾かなくなるだろう。幼い頃からピアノを弾いている自分を見て賞賛する人々のことを思い浮かべて喜んでいたのだから、私にとってピアノは自分をよく見せるための道具でしかないんだろう。

ここまで書いて、やはり自分の短絡的な考え方、一面的な見方にほとほと嫌気がさしてきた。たしかにかっこよく見せるための道具として使ってきた面もあるだろう。そのほうが多いかもしれない。だけど本当に音楽をしていて純粋に楽しいと思ったことは一度も無いのだろうか?そんなことは無いはずだ。小学生の頃の金管だってクラスの子の伴奏を務めた時だって合奏の授業の時だって、もちろんレッスンのときもそう、音楽というものを通して幸せを感じたことはあるはずなんだ。

ところで、もし日本のジェンダー問題が解消されたら私は一般の企業で働きたいと思うだろうか?答えがYESなら、アドラー心理学を理解できてないということになるのかな。

もう考えることを放棄してしまいたい気分だ。
めちゃくちゃな構成の文章でも記録することが大事なんだ。

2016-11-23 感情を書きなぐる

日本はジェンダー指数が発展途上国並みだ。文系私立大学の存在意義がないという意見は少し行き過ぎていると思うが、まあ何となく言いたいことは分かる。

裏表のある人間が怖い。低偏差値の大学に行ってレベルの低い講義は受ける意義がないと思うがわざわざ高い学費を払ってまで国立大学に行くのも気が引ける、250万と引き換えに哲学を語れる友人が欲しいかと問われたら答えは否、そんなことに大金を使いたくない。

普通の民間企業には向いてないと思う、PCの前でこつこつと仕事をするのが理想、でもそう思うのは人間関係に疲れているからだろうか。ものを書くことが好きだからフリーのライターなどは最適だと思う。小説家に憧れた時期もあった。ただ、音楽を完全に捨てきれるかが心配だ。

しかし、私が音楽が楽しいと思ったのは先生に褒められたときだけだ。

小学生の頃から一人遊びばかりしていたから自分は一人が好きなのだと思っていたが最近心の許せる友人が一人くらいいれば相当楽になるのだと知った。

やっぱりフリーランスでネットビジネスをすることに憧れる。プログラマに憧れたときもあったが大学で学ぶほどじゃないと思った、また今から始めて本当にものになるのか、ものになったとしてそれを使う機会はあるのか考えてしまう。

今まで自分は倫理学的なことを考え続けてきたのだと思う、哲学とはまたちょっと違うらしい。



日本語を学びたいと思うのは現代文が好きだから、現代文が好きなのは努力しなくてもある程度の点数を取れるから。それはつまり現代文が好きなのではなく現代文を勉強しなくてもある程度の点数が取れてしまう自分が好きなのではないか?この考え方は音楽にも当てはまると思う。だからといってすべての事象に当てはめようとするのはすごく一面的で短絡的な考え方だと思う。

高校生のうちに将来やりたい職業を決めるなんて確かに無理だと思う。だからなるべくたくさんの可能性を残しておきたいと思うがそれと同時にやりたくもない、将来役に立つかも分からない勉強をしたいとは思わない。大人になって勉強しておけばよかったと思う人がいるというのは聞いているがそう思う理由が分からないから納得できない、そして今は将来確実に役に立つことと興味のあることしかしたくないと思う。

私が数学を好きだと思い込んでしまったのは、まず最初に自己暗示をしてしまったのと、クラスの子から頼られて嬉しかったこと、それと男性的というジェンダー観があったからだと思う。

ジェンダー学を少しだけかじってみて不快になった。日本のジェンダーがこれほどまでに遅れていると知って唖然とした。それで、外国に行きたいと思った。

日本の働きすぎな傾向がものすごく嫌だ。だから私は企業で働きたくないし、自分もそうなるなら外国で働きたい。でも永住権をとらない限り一生外国で働くのは難しいし、海外でのネットビジネスは不利らしい。

この家に住みたくない理由はたった一つ、母親と暮らすのが嫌だから。

人と関わると幸せも得られるけれど無駄も多くなる。一生人とコミュニケーションをとらずに生きていけと言われたら幸せも感じるだろうが寂しさも多々感じるだろう。気の合う人と定期的に話すのが一番良いのかもしれない。一日に数回、好きな人と話すのが幸せだと思う。深い関係になると色々面倒だから良い関係を保っていきたい。でも浅い関係の人だけだとたまに無性に寂しくなるだろうから深い関係の人も2,3人必要かもしれない。

自己主張の得意な声の大きい人たちが苦手だ。陰キャは無視と言わんばかりの態度が癪に障る。


自分が本当に好きなものは無いんじゃないか。音楽も先生に褒められるから、人から賞賛されたから、数学も人に頼られるから、哲学ももしかしたら何か別の理由があるのかもしれない。自分のことが信用できない。決めたことも出来ないしすぐに目標も変えるし何よりいつまでも人の目を気にしてそれが最優先になっている。自分が無い。ただ漠然と外国に行きたいと思っていたが外国に行って実際に何がしたいのだろう。ワーホリを絶対にしたいと思ったときもあった。オーストラリアで農業のアルバイトをしたいと思っていた。香港に格安(往復2万円程)で行けると知って絶対行きたいと思ったがそれも目的が分からない。視野を広げるなどといっても広げたことで何になるのだろう?人生経験になるといっても経験があるから何なの?それが哲学につながるのだろうか?だとしたらどうやって?


あの時、周りの子にちやほやされて嬉しかった。mちゃんと仲良くなれて、話しかけられたときはすごく嬉しかった。でもそれも今思えば所謂スクールカースト上位の子と仲良くしているという優越感に浸っていただけだろう。(ここで皆そうなのだと決め付けるのが私の悪い癖だ。私がそうだからといって皆そうだとは限らない。)


研究者になりたいと思った。大学教授になりたいと思った。でもそこまで自分が哲学を学びたいと思ってるのかも分からない。でも確実に哲学を学ぶことは人生において有意義だと思う。だけどそれは大学でしか学べないことじゃない。独学でも学べる。教授というステータスに憧れている部分もあったと思う。理系の学者になりたいと思ったのは完全にステータスに憧れていただけだ。現代文の評論にもあったが科学を信仰しすぎていたのかもしれない。

現代文の評論を読むことは大好きだ。大体いつも評論の内容を覚えているのだが皆そうなのだろうか。優越感に浸りたいだけだろうか。

いつか必ず来ると言われている関東の大地震が怖い。地震大国の日本に住んでいることすら怖い。でもだからと言って銃社会のアメリカに住みたいかと問われたら閉口してしまうし何より非現実的だ。

大学に行ったら必ず誰かとコミュニケーションをとらなければいけない。人間嫌いの私にとってそれが苦痛だ。浅い関係を築きたいと思うが上手く出来るかわからない。間違えてのめりこんだが最後、自分の大切な時間まで4年間しか付き合わない相手のために使わなければいけないなど地獄以外の何者でもない。哲学を語れる友人がほしいなら哲学科に行かなければ出来ないかといえばそんなことは無いだろう。科目履修生として哲学の講義をとってもいいし大学生の多いバイト先で働いて探しても良いし哲学のイベント(あるのか分からないが)に行っても良い。目的の大学に編入するという手だってある。たとえば大阪大学の文学部などは毎年募集を行っているようだ。

授業にどうしても意義を見出せない。来年になれば理論は増える。音楽の道に進まない者としては少し、いやかなり辛いカリキュラムだ。そんな無駄なことに時間を費やすのであればもっと有益なことをしたい。その点、大学に進学したらどうだろうか。おそらくバイトはしなければならないだろうが自分の興味のあることだけを勉強するという願望は達成できるのではないだろうか。


頭では分かっている。何が問題で、何が気に食わないのだろう。やっぱり陽キャの子に対する劣等感や嫌悪感が引っかかって逃げ出したいと考えているのだろうか。あの人から無視されたという事実を何度も思い出してしまう。そういうやつなんだと割り切ることが出来ないのは傷つき耐性がまだ無いからだろう。そう考えると今回のこの傷ついた体験は耐性をつけるのに役立っているから良かったと思う。此処に居続ければこれからも沢山傷付くだろうし何度もめげると思う、だけどそれは必ず耐性をつけるという意味で大切な経験だし、要は人間関係なんてものは慣れだから、今人間と関わる技術を身につけたほうが良いと思う。

恥ずかしくて情けなくて書けなかったことを書こうと思う。クラスの子に自分は理系だと言い、国公立理系を目指しているのだと公言しておきながら今更私立の文系に行きますなんて、ダサすぎて言えないという思いが少なからずあった。だけどそれももうやめよう。無駄だと分かったんだ。そしてこの高い学費を払ってまで大学に行きたいとは思えないから専修哲学科か国士舘倫理学専攻を狙おうと思う。だから現代文と英語は熱心に勉強する(もっとも、英語の授業は既知の内容ばかりでつまらないのだが)。他の授業は気分次第。聞かない日があったっていいと思う。

真面目に頑張ったって疲れるだけだと気がついた。この、勉強しなくても進級できてしまう環境を生かさなければ勿体無い。ただ数学だけは頼られる幸せを知ったから頑張ろうと思う。
やりたいこととやらなければいけないことをちょっと書き出してみる。


大学に行く意義とは何だろう。学費が無料な分、お金はかからなくていいと思うが時間は浪費される。でも、論文を書くという作業はその道のプロである教授から教わらないと的確にこなせないかもしれない。もしかしたら、期待はしないが哲学を語れる友人が出来るかもしれない。仮に講義が既知の内容だったりつまらなかったりしても大学生という肩書きがあるだけで様々な恩恵を享受できるだろうし、夏休みという人生の最大の休暇を生かして成長したい。もしその大学が合わなくてもなにも一生そこにいるわけではないんだ。4年間くらい我慢できる。この学校を4年間で卒業することが出来たなら耐えられるんだ。強く生きよう。サイトを構成するまでの猶予期間と捉えても良いかもしれない。今は奨学金を借りてアメリカの大学院に行くことに憧れている。

やはり中庸、メソテースの考え方は良いなあと思った。なんでもやりすぎは良くない。何事も程々が丁度良いのかもしれない。

今日は駅から出て最初の信号のところでAちゃんに話しかけた。前に話しかけたときは死ぬほど緊張したけど、一回話しかけてしまえばもうそんなことは無く、結構普通に話しかけることが出来た。その前に電車の中であの子と親しげに話しているあの子の声を聞いて独占欲が満たされない苛々を感じていたからそれが原動力になったのかもしれない。もしかしたら独占欲だけじゃなくて劣等感とか寂寥感もあったのかもしれない。友達が一人しかいないというのは其の人に依存してしまうし独占欲もどんどん出てきてしまうから良くないことかもしれない。

私なんかよりも立派だなと思う子は何人もいるし、むしろそっちのほうが多い。ただ私はああいう人の目ばかりを気にして行動する中身の無いやつが大嫌いだ。…もちろん、人のこと言えないんだけど。

まず、これからどうするか。昨日の夜決意したように、私は4年かけて此処を卒業しようと思う。父親のことも信用できなくなったから国公立には行かない。数学の授業が無かろうが、英語の授業が中1レベルだろうがどうでもいい。自力で大学に入学する。そのために大切なのがまず勉強、そして大学に入ってからのことも非常に大切だ。仮に奨学金を貰えるようになったとしても大学生活についていけないようであれば取り消されるし、そんなことになれば私は大学を中退せざるを得ない。恐らく休学という形になったとしても奨学金を貰うことは出来なくなるだろう。従って、大学入門レベルの哲学、倫理学、語学は一通り学んでいたほうがいい。もちろん理由はそれだけじゃなく、ただ単純に自分が学んでみたい、興味があるからでもある。それから高校生のうちにネットで稼ぐ技術を身に着けること、プログラミングについてまずは知ること、そして料理の技術を高めること。大学生になったらというか大人になったら、お弁当を持ち歩きたくない。今みたいに荷物が重くなるのが嫌だし毎朝作るのが面倒だし、そもそも料理という作業自体が大嫌いなのだ。なぜ、胃の中に入ってしまえばすべて一緒なものをわざわざ綺麗に切ったり見栄えの良い盛り付けをしたりしなければならないんだ。私はそういう行為が無駄だと思うし、食べてほしい人もいないから料理が時間の無駄に思えてならない。ただ老後だけが心配かなあ。閑話休題、一人暮らしになるのは決まっているんだ。始めて早々嫌にならないためにも今から克服する準備を始めておくべきじゃないのか。とりあえず五大栄養素を意識して簡単かつ効率の良いレシピを少しずつ実践していきたいと思う。もちろん平日はそんなことする時間はないしする気も起きないから土日のどちらかにしようと思う。そのためには今日、レシピを検索して自分にあったものを見つけておかなければならない。土曜日に料理をした後、感想を書いてみて、続けられそうならどのくらいの頻度で、どのくらいの品数が出来るのかを考えて計画を立てたいと思う。これも勉強と一緒だ。

生きることについての考え [疑問]

高校2年も半分が過ぎたというのに志望校が決まらない。そこで以前から気になっていた学問の本を一通り見ていくことにした。そのうちの一つであるジェンダー学についての入門書を読み、多くの気付きを得ることができた。

新しい知識を得られたのは嬉しい。しかし、その内容があまりにも不快なものであるから正直、知らないほうが幸せだったのではないかと感じるときもある。あと数年後にはこの日本の社会で働かなければならないが、それも億劫に思える。今でさえ、制服のスカートに対する嫌忌の念が積もっている。長く続いた習慣はそう簡単に変えられるものではない。

最も耐えがたい事実は、自分自身の中にジェンダー観が根強く存在しているということだ。入門書を読み終えて3週間ほどたった今でも依然としてジェンダーにとらわれている自分に気付くことがある。もちろんまだ入門のレベルであって深い知識などは皆無であるから、これから学び続けていけば当然得られるものはあるだろう。しかしそうして自分が変わっても、ジェンダーが「社会的性差」と定義されているように、社会が、一人一人が変わらなければ意味がない。そして社会を変えるだけの能力や権力がなく、かつ、将来それらを得られる見込みのない自分がこれを勉強し続けても恐らくこの社会に何の影響も与えることができない。

以上の理由で志望校から社会学部という選択肢を消した。この考えから、そもそもなぜ日本を良くしていかなければならないのか、更に言えば世界中の問題をなぜ解決していかなければならないのか、そしてなぜ生きなければならないのかという疑問が生じた。

人間である以上、死は避けられない。年をとれば認知症などの病気のリスクも高まる。体の自由がきかなくなることも多い。80年くらいで自分にとっての全てが終わる。そんな中で、どうして解決できるかも分からない難しい問題に取り組まなければならないのか?確かに自分の利益に深く影響するような問題であれば取り組む意義はあるだろう。しかし少し不自由する程度だったり、自分にあまり関係がなかったりするような問題にあえて取り組む意義はあるのだろうか?

このように書くとひどく利己的な考え方だと思われるかもしれない。でも、自分より他人が大切な人間がどこにいるだろう?なにも自分以外がどうでも良いと言っているわけではない。私たちが社会的存在である以上、社会の秩序を守るための最低限の義務は果たさなければならない。ただ、それ以上の社会を良くするための行動は本当に必要なのか?

規模の大きな話であるが、地球にも寿命がある以上、全てが終わる日が来る。それは確実なのになぜ地球を良くしていかなければならないのか?終わってしまえばその努力は何にもならない。それならば今の自然に任せるのではいけないのか?この時代をこの年齢で生きている自分だから言えることなのかもしれない。だけど、自分の後の世代のことなんてはっきり言って私には関係がない。

これを書いた今、自分には倫理観や道徳心が欠けているのかもしれないと感じた。でも、仮に本当に欠けていたとして何が問題なのだろう?

悩みはつきない。
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日記 [日記]

布団に入って電気を消してから約1時間。明日も早いのにどうしても寝れないので頭が余計なことを考え始める。どうしようもない孤独感、将来に対する漠然とした不安、焦燥感。

自分に余裕がないからか、周囲の人々や出来事に神経質になる。今まで笑って許せていたことも馬鹿みたいに引きずるようになった。理想とする自分から日毎に離れていく現実。やるべきことも考えるべきことも山積みなのに適当な理由をつけていつまでも逃げている。こんな状態がもう1ヶ月以上続いている。このままでは結局過去と同じ過ちを繰り返すに違いない。何一つ成長していない自分が心の底から情けない。

深夜だからこんなに悲観的なのだろうか。今年に入ってから何度も新しい目標を掲げ、計画を立て、実行し、挫折することを繰り返してきた。思い返してみればいつも、明確な理由もなく計画を途中で放り投げていた。ちょっとつまづいて精神的ダメージを受けるとすぐに次の目標を作り出していた。そうして過去の自分の努力を認めようとせず、新しい目標に向かう自分でいることで満足していたのかもしれない。

精神的に落ち込んでいる状態でものを考えてもろくな答えが出ないことは過去の経験から学んだ。しかしながら、現在の自分が精神的に落ち込んでいるのかどうか、自分でも分からないのだ。ただ、考えていても厭世的な見方から答えを出そうとしているような気はするし、ひどく悲観的かつ神経質になっているのは事実である。また、このようなことを考えるよりも先にやるべきことが山ほどあるので出来るだけ早急に解決したいものだ。

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「友達」と一緒 [疑問]

最近学校で他の生徒の言動に苛立つことが多い。
自分には全く関係がなく生活にも差し障りがないにも関わらず、だ。しかもその言動は今に始まったことではない。ストレスが溜まっているのだろうか。或いはなんらかの原因で人間嫌いが酷くなったのか。

癪に障る行動を例にあげるならば、移動する際にわざわざ友達を待って一緒に喋りながらだらだらと歩く、休み時間にわざわざ椅子を動かして友達と一緒に弁当を食べる、授業中の私語(小声)や手紙交換……など、多くの高校生がやっているようなことであり、いずれも私には何の不都合ももたらさない行動である。
それなのに何故これらの行動を見ると腹が立つのか。考えられる理由は二つある。

一つ目は妬みだ。私はクラスの中に「友達」と呼べる存在は数えるほどしかない。それも非常に薄い付き合いのものだ。それと対照的に彼女らは大勢の友人に囲まれ楽しそうに笑っている。実際はどうかは知る由もないが、はたから見てとても幸せそうなのは事実である。したがって、現在お世辞にも幸せであるとは言えない自分の現状と比べてしまい、妬みという感情が生じるのではないだろうか。

そうでなければ、自尊心の裏返しだろう。私は友達という存在に価値が見出だせないし、更に言えばプリクラ、カラオケ、ショッピング等の普通の女子高校生が普通にすることを素直に楽しめない。ただ教室を移動したり弁当を食べたりするのに友達と一緒が良いという感覚も友達と喋りたいという感覚も理解できない。嘗てはそのことで悩んだが今はそんな自分を受け入れているつもりである。しかし根底には人としておかしいのではないかという疑惑があり、それを隠し通すために普通のことを素直に楽しむことが出来る人達に対するマイナスの感情を作り出し、自分を保とうとしているのだろう。

では、どうすることで解決できるのだろうか。前者が原因ならば幸せを手に入れるしか解決策は無いだろう。しかし自分にとって何が幸せなのか考える必要があるし、そもそも幸せになるということはどういうことなのかという根本的なことも理解していないので、それらに関する書物を読むべきである。

後者が原因だとすると、解決するのにかなり労力を要するように思う。まず、現時点で価値が無い、楽しめないと感じているものに興味を持とうとしても恐らく不可能だろう。人として何かがおかしいという感覚は、こうして書き出してみてから気が付いたことであるが、もしかしたらずっと思っていたことなのかもしれない。しかし何がおかしいかと問われても明確な答えは出せない。

視野を広げれば私と同じような人がいるかもしれない、いや、きっといるだろう。ただそうだとしても少数なのには変わりがなく……いや、その根拠はどこにある?大勢の高校生が「友達」と行動を共にし「友達」と遊んでいるが本当に皆それを心から望み、楽しんでいるのだろうか?答えが否だとしたら何のために?……


今回の悩みは一朝一夕で結論が出せるようなものではないらしい。もっと沢山の書物を読んで頭の中を整理してから気付いたことを書き足していきたいと思う。
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