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母親への憎しみと復讐 [疑問]

新たな疑問が生まれた。

一度復讐の段階まで達してしまった相手を自分の人生から抹消することは可能か?

これは何度考えても自分では結論が出なかった。嫌われる勇気では復讐にまで及んだ場合当事者同士での解決は不可能だと書いてあったように思う。しかし、愛のタスクから逃げることは人生の嘘である。それは、かつて復讐をした相手にも言えることなのだろうか?

私の場合は母親だった。小学五年生の時に始めたリストカットは、愛してくれない母親への復讐が目的だった。私が手首を切れば母親は悲しむ。それを分かっていながら自傷行為を続けていた。中学二年生の時にそれが見つかった時、予想通り母親は酷く悲しんだ。その時すでに復讐は成功していたのだ。

勿論今は自傷行為などしていないが、憎しみだけは未だに残っている。ただそれもアドラー心理学に出会ってから、特に課題の分離を知ってから段々薄れていっているのを感じる。しかし母親の声を聞いたり姿を見たりすると、どうしても憎悪の感情が心の底から沸き上がってくるのだ。

18歳になったらすぐさま家を出て一切の連絡手段を絶ち、20歳で分籍するつもりでいた。そうすることで『母親』という存在を自分の人生から消そうと考えた。もしそれで共同体感覚を掘り起こせなくなるのなら、死んだことにしようとも考えた。

それはアドラー心理学の観点から見れば間違っていることなのだろうか?

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共通テーマ:日記・雑感

性についての考え [アドラー心理学]

私は好きな男性芸能人がいる。しかし彼が私の目に物凄く魅力的に映るのはきっと私が他の男性を知らないからだろう。もっと言えば芸能人の男性にばかり目が行くのは一般人の男性を見ていないから、ただそれだけの理由だ。しかしながら、それが間違っているかと聞かれるとはっきりとした答えは出せない。とは言え芸能人しか見ないのなら、現実的に考えて芸能界に入らない限り男女交際や結婚などといったことからは離れてしまうだろう。きっと私が気付いていないだけで芸能界じゃなくても素敵な男性は沢山いる。ただ踏み出すのが怖い。私にとって男性と関わることは難易度が高すぎる。

そもそも何故男性と関われないのか?

フロイト的な原因論で考えれば、小学生の頃に会った男と中二の時のクラスメイト、電車内にいた変質者、そして放課後会った変質者、彼らに関わって怖い思いをしたから関われなくなったと考えるのが普通だろう。しかし私はフロイトよりもアドラーの心理学に沿って生きていきたい。

では、何が目的で男性と関わらないのか?

一つは男性に傷つけられることで女性としての自分を否定されるのが怖い、だから自分を傷つけられないように守るため。もう一つは男性と喋れないことを一つのアイデンティティにしているのではないか。

そう考えると、確かに家族と学校の先生以外の男性とまともに話したことのない自分を変えたいと思いながら、どこか誇りに思っていた部分もあった。人と違う自分、イコール特別な自分に酔っているのだろう。くだらない自己陶酔に気をとられて自分の人間としての幅を自分で狭めていた。男女差別に嫌悪感を抱きながら、一番差別をしていたのは自分だったのかもしれない。男性というだけで怖い人だと決めつけて避ける。なんて単純で目出度い考え方だろう。確かにあの恐怖心は本物だし、男性に対して身構えてしまう側面も無いとは言い切れない。ただ皆が皆怖い人ではないし、傷つける人ばかりなわけでもない。きっとそれは前から分かっていた筈だ。

そうなると、自分が同性愛者であるという認識も危うくなってくる。いや、本当は分かっていたんじゃないか。自分は異性愛者であり、マイノリティでも何でもない、と。ただそれを人に言うのが嫌だった。男性を好いている自分を人に見られたくない?これも課題の分離が出来ていないだけだろう。きっとただの自己陶酔にすぎない。マイノリティである自分に酔っていたかっただけだ。恋に恋してるだけ、の意味がやっと分かった気がする。先生が好きだった(と感じていた)ときも、同性に恋してる(つもりの)私が好きだっただけだ。

では何が目的で異性愛者と思われたくなかったのか?

好きな男性に対しては女性として見られたいが、家族や友達などには女と認識してほしくない。これも結局は課題の分離をするべきなのだろう。好きな男性に対しては女性として見られたい、ここを見ると異性愛者であることは明らかである。そして家族や友達に女と認識してほしくない、これは女である自分が嫌というより、女性のジェンダーが嫌なのではないか。おしとやかであるとか、大人しい、受け身であるなどが私の思う一般的な女性像であり、自分にもいくつかそのような点はあると感じている。ただそれが自分にとっては必要のないもので、寧ろそんな自分を変えたいとすら思っているのでまずはその女性像から抜け出したいと思い、嫌悪感に繋がっているのだろう。

髪を切ったのもメンズ服を着ているのも、勿論それ以外の目的もあるが、根本的な目的は自分の描く女性像から抜け出すことだったのだ。


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